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2007年11月

2007/11/30

朝日より産経が詳しく取り上げる慰安婦決議

自分も購読しているAML経由で知ったのだが、

カナダ、慰安婦決議を採択 日本政府に公式謝罪要求(産経新聞)

採択された決議は、慰安婦について「強制的な売春システムにおける日本帝国軍隊の関与に対しての全面的な責任」を認定した。その上で、「被害者全員に対して、議会において公式、かつ誠意ある謝罪の表明」を日本政府に要求している。

慰安婦問題に対する日本国内の反論に関して、決議は「慰安婦の性的奴隷化と人身売買に対する否定論者」への封じ込めを求める条項も盛り込んだ。

ちなみに、この件については朝日新聞でも毎日新聞でも報じている。が、強制的な徴用の事実認定や政府への公式謝罪の要求に加えて、日本国内で強く支持されている「従軍慰安婦や強制連行は存在しない」にも強い法的な対処を行う姿勢を見せたという事実・言い換えるならヘイト=クライムと看做すこともある、という事実を報じているのが何と「反日」に兎角敵愾心剥き出しの姿勢をとる産経だったというのはどういうことなんだろうか?もっとも産経としては、購読者層の多くを占めるであろう保守や右翼に格好の「燃料」を提供して、って言うことはあるのだろう。にしても、本来ならこうした従軍慰安婦や強制連行に徹底追及の姿勢を見せていた(少なくとも少し前はそうだった)朝日や毎日では何の言及も無い。まさかと思うが電凸とかを恐れて"自主規制"しているのか、それとも「戦後レジームからの脱却」の時流で不感症になったのか!?!?果てさて。

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2007/11/23

「3丁目の夕日」の内実は

『ビックコミック・オリジナル』で連載されている「3丁目の夕日」が、結構ヒットしているという。自分も10年以上も前に『ビッグコミック・オリジナル』で連載されていたのを立ち読みしていた経験があり、駄菓子屋とかが出てくる場面(そう言えば、映画でも舞台回しとして中心的な存在だったのだが)とかは、自分が通っていた小学校の光景を想起するところだ。

が、「3丁目の夕日」の描写しているのは良く言えば「いい思い出」・実も蓋も無いことを言うと「フィクション」でしかないということに、どれだけの観客が気づいているのだろうか?折も折『朝日新聞』が指摘していたが(既にWebからは消えていた。残念)、現実には「3丁目の夕日」が描写していたほど空も水も綺麗ではなかった。排ガス規制も無く下水道の整備も進んでいなかった時代、空が青いのも澄んだ川もCGの世界の話でしかない。ついでを言うなら、「3丁目の夕日」の後の時代の事件の印象が強い水俣病、その被害が拡大してしまうのもこの時期である。映画の舞台となった1959年には新日本窒素(当時)が患者に見舞金を些少ながら支給しているし、申し訳程度の対策を講じながらも水俣工場ではメチル水銀を排出し続けていたのだ。

話はこれに止まらない。災害対策や安全対策もまだまだ進んでいなかった。この年には伊勢湾台風が中部地方に上陸し、現在から見ても甚大な人的・物的被害を齎した。前後して横須賀市の国立衣笠病院が全焼し、妊婦や新生児が焼死した。治安に目を向けてみても小松川高校殺人や雅樹ちゃん誘拐殺人が起こり、少年凶悪犯の検挙数も現在と比べて多いという事実は意外に知られていない。「3丁目の夕日」の牧歌的な光景も、一つ裏側に回ればとんでもなく凄惨な現実が待ち受けていたのである。

世間では「3丁目の夕日」のヒットからか、その頃の時代を現在と比べて良かったかの様な回顧的な言説が流行っている。「いい思い出」として個々人が抱くのならまだいい。しかし、それによってフィクションと現実を取り違えてしまうのは、変な副作用を齎しはしないだろうか?後藤和智が「3丁目の夕日」の少し後に起こった少年による殺人事件を引いて「俗流若者論」の間違いを指摘しているのを読みながら、自分はそう考える。

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2007/11/12

民主主義のコストを無視してやしないか?

自分がよく覗くBlogの一つに藤末健三参院議員のBlogがある。以前、早大大学院時代に一度MOTの講義を受けたことが縁で、それ以来色々と覗かせて頂いたりコメントを寄せたりしている。

で、その藤末議員のBlog経由。

[国会議員]1人当たり経費3億1078万円なり 政府試算

藤末議員の主意書では、議員1人辺り3億円以上も議員にコストがかかっている→減らせば経費削減になるってことらしい。まぁ、確かに国会議員は衆参合わせて600人超いれどもが、その全員が全員まともな仕事もせず、加えて政党交付金の流用だの経費の水増しだのが大騒ぎになっていれば、議員の数を減らせって感情が出てくるのも当然なのかも知れない。

だが、考えてみよう。議員の数を減らせば質は上がると言えるのだろうか?仮に今の権限をそのまんまに議員の数が減れば少ないポストの人間が多くの権限を握るってことになる。そうなれば巨大な権限を目当てに激しい選挙戦が行われて、とまではいかなくても何らかの候補者調整や団体回りとかをして組織力勝負ってことになってしまう。そうして勝ち上がっていた議員が、国民の方を向くだろうか?まぁ、確かにメディアに出て格好のいいことを言うくらいはするかも知れないが、往々にして業界団体や圧力団体の利益を代弁することに向かうのは予想がつくだろう。幾ら浮動票で最後は決まると言っても、基本的には組織力勝負になってしまう訳だから。

それに議員の数を減らしてしまえば、それだけ民間から政府に関わる人間が少なくなるということになる。今でさえ官僚主導だの天下りだの官業癒着だの大騒ぎしていて、政治家が官僚の言うがままにされているのに輪をかけて政治家の統御を弱めろとでも言うのだろうか?議員の数を減らす分スタッフを増やせば好いと言う意見もあるが、リンク先の記事が言及している様にその分だけ経費は桁違いに跳ね上がっている。ボランティアで賄えば、って言っても罷り間違えれば(現在の私設秘書なんかの様に)業界団体や企業による"ヒモ付き"になって、新たな癒着のタネにもなり兼ねない。

少数精鋭の政治家にコストがかからず官僚組織も言うことを聞いて且つオープンでクリーン、ってのならどんなに理想的だろう。しかし、そんな絵空事はどう考えても不可能でしかない。官僚組織の頚木を脱するなら政治家の数かスタッフを多くすべきだし、クリーンにするなら相応のコストも必要となる。コスト高だから議員の定数を減らせって言う論者は、民主主義自体のコストすら理解できていないとしか思えないのだが?

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