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2009年3月

2009/03/25

成果主義の行き着く果て或いは日本の技術立国はアメリカの夢を見るか?

自分がよく覗くブログの一つであるkikulogで以前、成果主義はインパクトが強いが故にそのインパクトの強さに慣れると更なるインパクトを追及するようになる、という言説を見てそんなものだなぁとか思っていたのだった(もっとも、それとて虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ
に書かれていたということの又引きだったので、実際に本を読んでいた自分には断定的に言い難かったということもあるのだが)。

で、最近加藤尚武氏がこう書いている。

【正論】 アメリカ経済の危うい仕組み
いま問題化している大手保険の巨額ボーナスでもわかるように、アメリカのトップクラスでは、「年収1000万円のためなら働かない、ボーナスだけでも1億円以上もらわないと元気がでない」という精神状態になっている。巨額の富をつり上げることが刺激剤(インセンティブ)として使われている。
貧しい人が「チャンスがあれば自分も成功して富豪に」という夢を捨てていないということは、世論調査などでも裏付けられている。所得格差を縮めるよりは、富豪の夢を大きくする方が、社会的な安定に貢献するという体質をアメリカ社会が持ち続けている。

なるほど、中村修二にしろイチローにしろ日本では考えられない報酬を得ることができるチャンスはあるとは言え、実際には大多数が低収入に甘んじているが故に成り立っている。その結果が天文学的な格差とも言えるのだろう。だが、何十年もそれを繰り返している間に皮肉にも「いい仕事をする」=「高い報酬」が当たり前になってしまい、それが経済の不調な今になって社会を悩ませる問題になっているとも言えるのだろう。

尤も、報酬ばかりではなく「名声」という点でも、アメリカでは世界から優秀な人材を引き付けてきた。加藤氏は「貿易収支のバランスを回復すること、資源の浪費体質から抜け出すこと」に加え「社会的な格差を小さくすること」が同時に成功することをアメリカの再建に必要だと言及しているが、少なくともアメリカでの成功が「名声」として評価されている限りは最後の点に関わる高額報酬の問題を解決できる可能性が高いのかも知れない。しかし、日本はどうだろう?技術立国とばかりに技術者や専門家を厚遇しようにも、「名声」として評価されないだけ報酬でのインセンティブに頼らなければならないジレンマに陥ってしまう。しかし、そうなれば今度は天文学的な格差社会だ。それを日本社会がコンセンサスとして受け入れることが出来るのか疑問だし、そもそも技術立国という成功体験が(「ガラパゴス化」と言われている様に)成り立たなくなっている、ソフトやサービスで提供した方がコストの回避に繋がり収入を上げられる、何より医者や弁護士など他の専門職も足りなくなっている・・・・・という課題群を前にして、果たしてアメリカの後追い的な技術立国論が有効なのか?自分には疑問符が尽きない。


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2009/03/17

正気ですか?「火の玉教授」

【ウィキペディアのでたらめ】
とくに『発言』の項目がでたらめです。私の発言が悪質に捻じ曲げられているだけならまだしも、この私の発言とやらに自分たちオカルトモドキの反論を載せているわけです。(中略)もちろんウィキペディアの書き換えをやったオカルトはこのような物理学の背景があることなどまったく理解していないのだ。
正直、Wikipediaの編集に携わっていて尚且つ当該部分の編集に関わった一人でもあるし、一方で「悪徳商法?マニアックス」でWikipediaの管理体制に批判的な見方を持っている一人ではあるのだけど、「火の玉教授」氏はWikipediaで編集するなり或いはノートで議論を提起するくらいはできなかったのだろうか?少なくとも保護や半保護されている訳でもないのだから編集は(「火の玉教授」氏も含めて)自由にできるのだし、発言についての不正確さを指摘する程度なら出典の詳細な部分も含めて俎上に乗せてヨリ正確さを期する様にすればいいだけである。

しかし件の記述の正確・不正確さ以上に、以下の部分が見過ごせない。

しかしもはやこれを放置できない。不必要な項目を全面削除して凍結するか項目すべてを削除するかを検討中である。

個人情報のプライバシーの侵害とかじゃなくて、自分に都合の悪い記述があれば途中の議論も抜きに削除って・・・・・どっかの"学位屋"兼業の某カルト集団と何処が違うのでしょうか?そんなことやらかすから、下手に(まともな)疑似科学批判が誤解を持たれてしまうのではと思うのですけど。


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2009/03/11

自分たちの"密室政治"を棚に上げて議員定数削減って何様のつもりだろう

県議会の定数を削減しろと市町村長と市町村議会議長が県議会に要求してきたそうだ。彼らに言わせれば合併で議員の数を散々減らしてきたのに県は・・・・・と言うことなのだろうが、しかし市町村議会にして議員定数の効果と呼べるものが自分には思いつかない。

確かにスリムになっただけ経費は削減できたとか意思決定のスピードが早くなったとか、賛成する側は矢鱈削減の"効果"を口にする。だが、往々にして地方議会でこそ情報公開はおろか議員の発言一つとっても不自由だったりもする(水戸市議会では議会の内情をブログに載せただけで懲罰騒ぎにまでなった)し、現実には議論すべきこともされないまま殆ど総与党的に意思決定が行われているのが実情だったりする。その様な中で意思決定のスピードだの言われても空虚な響きにしかならないし、政務調査費ですら情報公開しないまま議員の頭数を減らすだけでは少数意見を"雑音"として排除しようという意図しか見えてこない。

そもそも、こうした議員の定数削減を求めてくる連中は、(今回は市町村長と市町村町議会議長だったが)兎角議会や首長と懇談したり意見交換したり場合によっては下働きの様なことをする団体や区長だったりする。こうした連中との懇談内容とかは(ただでさえ情報公開の遅れている議会と比べても)余り情報が知らされないし、そのために支出される「交際費」ですら殆ど詳細を知らされていなかったりする。それこそ永田町の密室政治よろしくの癒着体制の真っ只中にいる人たちが、自分たちの癒着を棚に上げて議員の数を減らせと言われても説得力を持ち得ない。いみじくも自分たちの"密室政治"を不問にして、(タテマエとしては)オープンな議論の場である議会を小さくするのは本末転倒でしかない。


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2009/03/10

「紺屋の白袴」か「百の説法屁一つ」か

以前、大島謙「高校を変えたい!―民間人校長奮戦記」を立ち読みしたことがあったが、違和感を感じるところがあった。大島が三重県の公立校校長だった時分に校内で出すドキュメントの年号表記を西暦にするか元号にするか議論に上ったそうだが、その際「日本の伝統を守る」と大島は元号表記で押し通したと言うことだ。

大島は学校の世界を「異界」と呼びそれを変えた一つの事例として年号表記の一件を挙げたとのことだが、しかし同じ頃三重県では当時の北川正恭知事が(これまた「異界」と言われた)役所の風土を変える一環として公文書の年号表記を西暦に変えたのである。価値観の違いとして切って捨てればそれまでではあるが、しかし現実には役所の世界でこそ元号表記に拘る姿勢が強いとも言われ、グローバルと言われている企業でさえ(大体において西暦を使用しながらも)役所に提出したり国内向けの公式発表では元号を使ったりする。教員の世界が一つの「異界」であることは否定はしない。だが、大島のやったことは、「異界」のルールを別の「異界」のルールに置き換えただけの、本質的には何も変わっていない行為ではないだろうか。

いじめ撲滅の集会で「いじめは必ず解決できる!」と自慢げに断言していながら、その足元での苛めに全く気がつかず自殺者を出してしまったというニュースを見ていてこの違和感が改めて頭を過ぎったのであった。


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